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第二章 第七十八話 名前は売れる

last update publish date: 2026-10-24 10:53:08

第二章 第七十八話 名前は売れる

 翌朝、紅珠に「お母さんが来ています」と告げるまで、私は何度も頭の中で言い方を考えていたのだけれど、結局、気の利いた言葉など一つも思いつかなかった。

 母親が娘を三年間死んだと思っていたことも、昨日は役人の前で「娘ではない」と嘘をついたことも、その理由が弟を殺すと脅されたからだったことも、銀十両を受け取って生活のために使ったことも、どれか一つだけなら説明できる。しかし、それらが全部同時に存在しているのが人間で、ひとまとめにして「お母さんも仕方がなかったのです」と言えば紅珠を傷つけるし、「あなたを裏切った母親です」と言えば梅春の三年間を削ってしまう。

 だから私は、医療房の寝台で朝の薬湯を嫌そうに飲んでいる紅珠へ、余計な飾りを付けずに言った。

「紅珠さん。お母さんが、昨夜ここへ来ました」

 紅珠の手が止まった。

 椀の中で、薄茶色の薬湯が小さく揺れる。

「……

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    第二章 第七十八話 名前は売れる 翌朝、紅珠に「お母さんが来ています」と告げるまで、私は何度も頭の中で言い方を考えていたのだけれど、結局、気の利いた言葉など一つも思いつかなかった。 母親が娘を三年間死んだと思っていたことも、昨日は役人の前で「娘ではない」と嘘をついたことも、その理由が弟を殺すと脅されたからだったことも、銀十両を受け取って生活のために使ったことも、どれか一つだけなら説明できる。しかし、それらが全部同時に存在しているのが人間で、ひとまとめにして「お母さんも仕方がなかったのです」と言えば紅珠を傷つけるし、「あなたを裏切った母親です」と言えば梅春の三年間を削ってしまう。 だから私は、医療房の寝台で朝の薬湯を嫌そうに飲んでいる紅珠へ、余計な飾りを付けずに言った。「紅珠さん。お母さんが、昨夜ここへ来ました」 紅珠の手が止まった。 椀の中で、薄茶色の薬湯が小さく揺れる。「……母さんが?」「はい。柳根村から一人で来ました」「どうして?」「あなたに会うためです」「私のこと、娘じゃないって言ったんですよね」 予想していた。 それでも胸が痛む。「役人には、そう言いました」「じゃあ、何で会いに来るんですか」「それを、お母さん自身から聞きますか」 紅珠はすぐには答えなかった。 薬湯の椀を膝へ置いたまま、唇を引き結んでいる。十四歳の子供らしい顔と、大人を信用しない人間の顔が、同じところにあった。「鈴花さんは、もう聞いたんですか」「聞きました」「じゃあ教えてください」「私から聞くのと、お母さんから聞くのでは違います」「でも、母さんが嘘つくかもしれない」「その時は、私たちが

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    第二章 第七十七話 死んだ娘の母 紅珠の母・梅春が「その娘は自分の娘ではない」と証言したという報告を、私はその日のうちに紅珠へ伝えることができなかった。 隠しておけば傷つかないと思ったわけではないし、都合の悪いことを黙って守ったつもりになる人間がどれほど相手を苦しめるのかは、明霞姉様や皇后様や母を通して嫌というほど知っている。それでも、周記布店の跡から戻ったばかりの紅珠が、新しい布靴を嬉しそうに脱いで医療房の寝台へ上がり、「母さんに会ったら、この靴を見せてもいいですか。三年前に家を出る時は、弟のお下がりみたいなぼろぼろの草履だったから、きっとびっくりします」と笑った時だけは、喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまった。 私はずるい。 たぶん、それでいい。 人間はいつも正しい時刻に正しい言葉を言えるわけではないし、言えなかったことまで記録しておいた方が、後で自分を綺麗な人間だと思い込まずに済む。「鈴花、さっきから紅珠の寝顔ばっかり見てるけど、何か顔についてる?」 医療房の戸口にもたれた蘭々が、声を落として聞いてきた。「ついていません」「じゃあ、言うかどうか悩んでる?」「……はい」「母親のこと」「はい」 蘭々は珍しくすぐには何も言わず、紅珠の寝台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。医療房の窓から夕方の光が差し込み、眠っている紅珠の頬を薄く照らしている。まだ十四歳なのに、眉間には小さな皺が残っていた。眠っていても、何かを心配している顔だった。「私だったら、今は言わないかも」 蘭々が言った。 少し意外だった。「蘭々なら、すぐ言うと思いました」「どういう意味?」「思ったことをそのまま言うので」「私だって相手が寝る前に一番嫌な話くらいは考えるよ。たぶん」

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    第二章 第七十六話 鼠でも紙は齧れます 十二人分の死亡戸籍を机の上へ並べた翌朝、還名房にはいつもの倍ほど人がいるのに、いつもより静かだった。 戸部から派遣された書記が二人、方玄の指示で死亡年月日や出生地を書き写し、白瑛は旧白家網の記録と照合するため別の机で帳面を開き、蘭々は「字ばっかり見てると頭が腐る」と文句を言いながら、そのくせ誰より熱心に紙の端へ顔を近づけている。私は十二人の名前を何度も読み返していたけれど、今のところ分かっているのは、全員が一度正式に死んだことにされ、その後どこかで戸籍番号を再び使われているということだけだった。「これ、本当に十二人だけなんですか」 私が尋ねると、方玄は書き写していた筆を止めずに答えた。「昨日持ち出された閉鎖戸籍が十二件というだけです。同じ処理をされた記録が過去に何件あるかは、戸部が現在調査しています。ただし閉鎖簿は膨大ですから、すべて照合するには時間がかかります」「つまり、誰かが十二件を盗もうとしたおかげで、十二件については気づけた?」 蘭々が言う。「皮肉ですが、そうなります」「だったら、盗んだ人ってちょっと親切じゃない?」「犯罪者を妙な褒め方で評価しないでください」「でも、燃やされてたら分からなかったんでしょ?」「だからこそ、持ち出した理由を調べています。証拠を消すつもりだったのか、別の場所へ移すつもりだったのか、誰かが先に保護しようとしたのか、それすらまだ不明です」「また不明」 蘭々が嫌そうに言った。「昨日から不明ばっかりじゃん」「調査というものは、最初は分からないことを増やす仕事なのです」「普通、減らす仕事じゃないの?」「何が分からないのかを正しく増やさないと、最後まで減りません」「方玄って、難しい言い方するの好きだよね」「あなたが簡

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    第二章 第七十三話 死人が還名房へ来ました 還名房が正式に仕事を始めて七日目、私はようやく、自分たちがとんでもなく面倒なものを作ってしまったのだと理解した。 白家の帳を壊し、人の名を勝手に奪ったり与えたりできないようにして、本人が望むなら元の名へ戻り、別の名を選びたいならその意思を記録し、まだ決められないなら決められないまま残しておける場所を作る。それだけ聞けば、ずいぶん立派で優しい仕組みに思えるのだけれど、実際に始めてみれば、名前というものは洗濯物よりずっと扱いが面倒だった。「だから言ったじゃない。名前なんて本人に聞けばいいって。『あなたは今日から何て呼ばれたいですか』って聞いて、その名前を書けば終わりでしょ?」 朝から三度目になる欠伸をしながら、蘭々が記録机の端へ頬を乗せたので、向かいに座っていた方玄が露骨に眉を寄せた。「終わりません。本人が希望する呼称と、出生時の名と、現在の戸籍名と、過去に使用していた名と、法的に変更可能な名は別です。それらを一つにしてしまえば、相続や婚姻、土地所有、納税記録との照合ができなくなりますし、何より別人が本人を騙る余地が生まれます」「また始まったよ。方玄の『法的には』」「私の名前を妙な呼び捨てにしないでください。それと、記録官が法を気にしなくなったら誰が気にするのです」「鈴花が気にするんじゃない?」「どうして私なんですか」 書きかけの記録から顔を上げると、蘭々と方玄が同時にこちらを見た。見ないでほしい。白家の帳を破り、皇后様の死について証言し、太后様や玉蘭妃様や白啓まで巻き込んだ一連の騒ぎのせいで、なぜか私は「面倒になった時に最後に聞けば何とかする人」のような扱いになりつつあるけれど、そんな役目を引き受けた覚えはない。「私は洗衣局の下級宮女だった人間ですよ。戸籍の決まりなんて、方玄さんの方がずっと詳しいでしょう」「だから困っているのです。制度については私の方が詳しい。しかし、この房では制度通りに処理すればいいわけではない、と陛下から

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